P.B.モールスワース(P.B.Molesworth)(図)はイギリス陸軍の大尉(後に少佐)で、
英国天文協会(BAA)の設立当時からのメンバーでした。1894年以降、任地のセイ
ロン(現在のスリランカ)に定住し、赤道直下の安定した大気の下、32cm反射を用
いて惑星観測を精力的に行いました。
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[図1] P.B.モールスワース(1867-1908) |
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彼は観測ノートに描いた木星面の部分スケッチに、模様が中央を横切る時刻を記
録する(CMT観測)という方法で、莫大な数のデータを残しました。特に1900年の
観測シーズンには、6758個という途方もない数のCMT観測を得ています。ちなみ
に筆者は同じ数のCMTを得るのに23年かかっていますから、その凄まじさは想像
を絶するものがあります。
彼の最大の功績は1901年に史上最大規模の南熱帯攪乱の発生を捉えたことです。
1900年のSEB南縁には多数の突起模様が観測されましたが、彼はそのひとつが
1901年2月28日にSTBと連結してしまったことを発見しました。その後、経度方向
に広がって南熱帯攪乱と名付けられたこの暗部は、約40年に渡って木星面のラン
ドマークとして観測され続けたのです。その時の様子を記録した彼の観測ノート
は、その後長い間行方不明となっていましたが、近年になってBAAのアーカイブ
で発見され、攪乱の発生経度が体系II:286°であったことが判明しています。
他にも、1903年には大赤斑後方のSEBで模様が短時間のうちに大きく変化する極
めて珍しい現象を観測していますし、大赤斑の90日周期の振動についても、ニュ
ーメキシコ州立大の写真観測から発見される60年以上も前に、「赤斑湾の前後端
の動きから、偏差が最大になる間隔が約90日ではないかという強い疑いを持っ
た」と指摘していて、彼の観察眼の鋭さがうかがわれます。
彼の精緻で高密度な観測は、時によって他の観測者と異なる結果を導き出したた
め、当時は信憑性を疑われたりしました。しかし、後年のボイジャー探査機など
の観測データは、彼の観測結果の多くを支持しています。
彼は1906年に退役して、セイロン島での天文活動に専念しようとしましたが、ハ
ードな観測が祟ったのか、まもなく病に倒れ、1908年のクリスマスの日に41歳の
若さでこの世を去ってしまいました。
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